ハック大学 学長ぺそについて

皆様はじめまして。このメディアを書いている ぺそ と申します。

私は今アラサーで、都内にある外資系金融機関に勤め、(その年の会社業績/個人業績により前後しますが)2,000万円にギリギリ届かないくらいの水準の年収をいただいています。この2,000万円という数字は、周囲の平均よりも高い水準だとは思いますが、自分が周りよりも特別秀でた素晴らしい才能があったわけではありません。

ただ、常に人材の市場(マーケット)を見て、自身の市場価値が落ちないように動き、チャンスがあれば波に乗っただけでした。

これまで、現職も含めて3社経験をしているのですが、このメディアではそんな平凡な私がどういった考え方で、またどういった動き方でこの水準の年収を獲得したのか、を伝えていきたいと思っています。具体的な考え方等を伝えるにあたって、この記事では「そもそもぺそ、お前は誰なんや」というお話をしていきたいと思います。

【~23歳】大学卒業後、第一志望の日系大企業で伸びた鼻を折られる

私は比較的裕福でない家庭で育ったため、幼少期より「お金への執着」は人よりも強いという自覚はありました。その影響もあってか、大学受験においては、「就職が容易になる」という基準で偏差値の高い大学へ進学し、中でも就職率の高い工学部を選択しました。

工学部の特徴でもあるのですが、大学3年次になると周囲が当たり前のように大学院への進学に向けて勉学に励みます。そんな中、「院進とかありえない(笑)就職しかないだろ(笑)」という安直な考えのまま、就職活動をしていました。学部卒で、いわゆる「文系就職」というやつをやっていました。(そもそも「文系/理系」ような考え方はナンセンスだと今は感じています。)

就職活動の軸は、「より多くの給料がもらえそう」という低次元の考えのもと、大企業のみ採用選考に応募しました。今でいう「大手病」という病にかかっていた残念な学生だったのですが、運良く第一志望の企業に内定をもらい、翌4月からその企業で働き始めることになりました。

その企業で私は主に、セールス・マーケティングに近い部署で働きました。同期にも恵まれ、大企業ならではの規模の大きな仕事も任され、売上増加にも貢献し※、非常に大きなやりがいを感じながら働いていました。そんな生活が3年ほど続いたとき、友人の手伝いで、「ある商品を売る」という仕事を手伝う機会が訪れました。報酬は頂かず、ある意味ボランティアでの参加だったのですが、「面白そう」という思いのみで、参加したことを覚えています。
※この「自身の貢献」がただの自惚れだったことは次のセクションで気付きます。。

そのお手伝いでは「ある程度の予算を貰ってサンダルを売る」という、今思えば(無形商材対比で)売りやすい商品を売るお手伝いをしたのですが、自分の能力を正確に把握していなかった私は冗談抜きで「俺はめちゃくちゃ大きな企業の売上にめちゃくちゃ貢献する商品を日々の中でめちゃくちゃ売ってるんだから売れないわけないだろ」という意気込みで参加していました。

会社の中で通用していた「セールス理論(笑)」を掲げて、商材の性格も違う物を、年齢層等も違う客層へ、会社と全く同じ方法で取り組めば間違いなく売れる、と本気で勘違いしていました。結果、お手伝いには全く貢献せず、なんなら何も売れないカカシをしただけでその日が終わりました。

【~25歳】大きな泥船に乗っている危機感から外資戦コンへ転職

「売れなかったこと」に対して悔しさもありましたが、そのころ自分の市場価値を正確に理解していなかった私の頭には「?」が浮かぶのみでした。ひとまずこの「?」を解消するために、その原因を探ることに集中しました。結果わかったことは、「自分自身の価値は小さいものであり、今回行ったお手伝いでも貢献できず、行ってしまえば普段の会社での仕事でも何も貢献してないじゃん」でした。後ろから頭をハンマーで殴られるような衝撃を受けたことを今でも覚えています。

会社では、企業の看板や、企業のブランドや、企業の信頼によって、売れていただけであり、自分はその販売手続きの橋渡しをしていただけだ、と気付きました。もちろん、この販売手続きの橋渡し自体にも価値はあると思います。でも、別に自分じゃなくてもできることをやっていたんだな、という明確な危機感を覚えました。

その日からは、危機感をモチベーションに動き始めました。会社において、誰も見ていないような小さな業務をやるにあたっても、「どうやったら自分の価値を出せるか」「どうやったら自分にしかできないことを突き詰めることができるか」を意識して取り組み始めました。

これまで使ったことのない脳みそを使う時間はタフな一方で、得られる達成感もまた違ったものでした。そういう生活を続けた結果、何も考えずに働いていた時よりも、できることの幅は広がり、任される仕事の種類が変わってきました。具体的には、誰でもできる作業員のような仕事ではなく、私の価値を求められるような(その組織内では自分がやることが組織最適になるような)仕事が明確に、そして急激に増えました。

また、危機感をモチベーションに動くことは別の効用も生み出しました。この時期に、並行して英語力の強化にも取り組み始めました。この企業は完全にドメスティック企業であり業務で英語を使う機会はほとんどなかったのですが、会社の外(マーケット)を見ると、英語力が必要な機会に溢れていました

また、日本は島国であるため、グローバルで見ると教育水準は高い一方で英語力が低すぎるため、「英語力をつけること」で比較的コスパ良く市場価値を手に入れることができると考えました。レッドオーシャン(敵が多い)分野へコスト(時間・費用)を使うよりも、すでに持っているスキルに「in English」を掛け算した方が効率的だと判断しました。(英語能力の重要性はこちらの記事で解説しています。)

そうやってより危機感を持って色々なことに取り組むと、任される仕事以外にも自分の中で大きな変化が起き始めました。以前までは何も感じていなかった会社の飲み会が途端につまらなくなったのです。会社の飲み会では、「上司が帰らないから帰りづらい」「XX部署の〇〇さんは不倫をしているらしい」「忘年会の幹事が大変」等の話で溢れており、素直に「何だこれめちゃくちゃつまんねーな」と思いました。このときから、持っていた危機感に拍車がかかりました。

飲み会で行われる会話のほぼ全てが、自分たちが乗る船の中で起きるウチワの噂話、自分の船の船長に気に入られ怒られない方法論ばかりでした。船は海を移動するための道具に過ぎないのにも関わらず、その船の大きさに安心しきって船の外を見ようとしない(むしろその船の大きさや古さに頼り切っている)ように映りました。皆海の上にいるという自覚がない、ゆっくりと沈む泥船に乗ってしまっているという危機感を覚えました。
※大企業で働くすべての方がそういうモチベーションではないことは重々承知していますが、少なくともそのときはそう映りました。

この時から、働く場所を変えるということを強烈に意識し始めます。

船から海に、いきなり放り出されても生きていけるような人材になれるような環境、より意識が高く強いプレッシャーがかかり、市場価値を上げ続けている仲間がいる環境、そして自身の市場価値を適切に評価してくれる(年収水準が高い)環境を求め、転職活動を始めました。そういった環境を求めた結果、外資戦略コンサル企業に絞り(コンサル転職については少し特殊なので別の記事で詳しく解説する予定です)、約半年後に内定をいただき、そこで働き始めることになりました。

【~28歳】地獄の日々で獲得した価値を活用し外資金融機関へ転職

未経験で入ったコンサルティングファームでの仕事は、とても大変でした。ファームの中にいる生え抜き社員(新卒からその会社に在籍する人)は熾烈な就活競争を勝ち抜き、会社で生き抜いてきた、紛れもない猛者たちばかり。また、私と同じような形で別の業界から来た中途社員も、各業界から鳴り物入りで転職をしてきた猛者たちばかり。そのような猛者たちと、クビをかけたレースを繰り広げる必要があるため、弱音を吐く暇もありません。

コンサル業界はプロジェクト制で動くことが一般的です。つまり、マネージャー陣が獲得してきた案件に対し、必要な人員を都度アサインし業務課題に取り組みます。このような制度を取っているため、ある種、社内で就職活動のようなもの毎度やるようなイメージです。そのため、アサインされたプロジェクトの中で一度でも「できないやつ」という烙印を押されると、以後アサインはされづらくなってしまいます。(マネージャー陣も質の高いコンサルティングを提供するために、できない人材はアサインしたくありません。)そういった特性があるため、「あの人最近見ないね」のような景色を多く見てきました。このため、文字通り寝る間も惜しんで死ぬ気で働きました。

また、働くうえでは常に自身の市場価値を意識しました。今後のキャリアは決めずとも、「コンサルの作業がうまいだけの人」や「マネージャーから気に入られるだけの人」にならないようにし、「社内はもちろん、社外(マーケット)に出ても評価される人」になるよう、努力の方向性を定めました。例えば、オフィス等のツールを正確に早く活用することはあくまで手段と割り切り、クライアントのトップ、自社のパートナーやマネージャー等役割責任が大きな人に視点でものを考え、より高次元のスキル・マインドを吸収するように努めました。

こういった考えのもとで過ごす日々のプレッシャーは地獄でしたが、プロジェクトが成功に終わった時の達成感は前職では得られないほど大きなものでした。常に「どうすれば相手に価値を提供できるか(≒自身が提供できる価値は何か)」を考えていたため、プロジェクト後にクライアントやチームメンバーから感謝されること・求められることは素直に喜びを感じることができました。「自分が作る付加価値が発生しやすい環境に身を置きたい」というマインドセットはコンサルという職種に合っていたのだと思います。そのときから、「ここでの仕事は大変ではあるが、このやりがい感じることができるのはここだけだ。高めたいと考えている市場価値もここでは大きく伸ばしていける。よし、コンサルで生きていこう」と考え始めていました。

そのように、「コンサルで生きていこう」と思っていた矢先に、大学の友人から飲みに誘われます。彼は僕と同じく工学部でありながら学部卒で就職をし、そのとき既に金融業界で第一線を走っていました。飲み会の序盤では、会っていなかった期間のお互いのキャリアの棚卸をしながら馬鹿話をしていましたが、会の終盤、急にトーンが変わり、「うちに来てほしい」と言われました。気持ちの面ではコンサルに舵を切ったばかりだったので、丁重にお断りをしようと持ったのですが、彼の会社の状況を聞くと、彼の組織は課題を多く抱えていました。また、それらの課題の多くは、自身の経験を活用すれば解決できると感じました。いずれにしても、もうちょっと話を聞かなければ、という使命感にとらわれていました。

そしてその翌週、早速彼の会社の社長と面談をしました。採用面接といったものではなく、日々の業務で行っているようなコンサルティングの面談に近かったと思います。何が課題で、どう解決するか。それを長時間ディスカッションしました。また、的が外れたソリューションを提案しないために、社長以外の社員の方々とも面談を行い、現場の声も聞かせていただきました。 結果、当初立てた「自分が貢献できる」という仮説は面談を重ねるにつれて確信に変わってきました。

確信に変わる一方で、自分のキャリアについては明確に迷いが生じていました。「今の会社よりもよりハンズオン形態で、自身の価値を発揮し課題解決ができるのではないか。」「ここで何かを成し遂げることができれば自身の市場価値が今よりも急速に上がるのではないか」と思いました。平凡な事業会社から外資戦略コンサルに転職したときと角度は違いますが、原体験はほとんど同じでした。

面談やディスカッションを重ねるのと並行して、業界のことを自学で勉強した結果、この会社に限らず、業界内の多くの企業が同様の課題を抱えていることがわかったので、外資金融業界の中でも同じビジネスモデルを採る企業の採用面接を受け始めました。
※時間を作ってくれたその会社の社長と友人には頭出し・ご相談をしたうえで行いました。

書類や面接では共通して、「こいつは果たして我々の会社に貢献するのか?」の答えを準備することを意識して挑みました。自身が設定した仮説とその解決方法は的を射ているようで、全てではないものの多くのオファーをいただきました。(採用面接にあたっての考え方・ノウハウはこちらの記事で詳しく解説しています)

オファーをいくつかいただいた後に、「自分自身の価値を発揮できる場所はどこか」「市場価値を急速に上げることができる場所はどこか」「自分にしかできない価値を求めている企業はどこか(≒オファー年収)」を比較検討しました。結果的に、最初に面談した、友人の勤める外資金融機関で半年後から働き始めました。

【~現在】外資金融マンってスゲー!けどバリューは出しやすい環境

そういった流れで現在の職場に転職をし、主にセールス・マーケティング領域にて、外から見える課題や金融機関の人が気付きにくい観点を活かし、バリューを出すため日々精進しています。

長々と自身のキャリアを語ってまいりましたが、冒頭でお話ししたように、私が何か特別な成果を上げたり特別スキルを持っているかというと、そんなことはありません。ただ、「何が市場で評価をされ、どうすれば自分を高く買ってもらえるのか」については、誰よりも考えたことにより、このキャリアを形成できたと考えています。むしろ今の環境では、それを考えずに「自身の市場価値を無視し終身雇用システムに甘えること」は極めて危険だと考えています。

(終身雇用システムが終わっていることはこちらの記事で詳しく解説しています)

何が言いたいかというと、市場価値を意識するかしないか、またその意識のもと動くか動かないか、これだけで未来は大きく変わります。考え方ひとつでそこまで変わることを実感しているので、この経験で学んだことをシェアし、読者の皆様とも高めあっていければという魂胆があります。

このメディアが皆様のキャリアづくりの一助となればと思っています。

タイトルとURLをコピーしました